なぜAかBかと悩んでしまうのか ― 迷いが生まれなくなる“視点の変え方” ―
ココロ:
「ねえアキさん、もしあの時、
別のほうを選んでいたら……って、
考えちゃうこと、ありません?」
アキ:
「あるわよ。
結果が悪かったわけじゃないのに、
ふと“もう一つの道”がよぎること。」
ココロ:
「そうなんです。
忘れようとしても、また出てきて……。
どうしたら、
この迷いを終わらせられるんでしょう。」
ソウ:
「“迷いを消す”ことを目標にしている限り、
また生まれる。大切なのは、
迷いが生まれなくなる前提に戻ることだよ。」
ココロ:
「前提……?」
ソウ:
「うん。今日は、その“前提”を一段上の視点から見てみよう。」

「もし、あの時あっちを選んでいたら……」
人生には、そんなふうに“選ばなかった道”が、
ふとよぎる瞬間がありませんか。
もう過ぎたことを
今更思っても仕方がないと分っていても、
「もしかしたら、別の選択のほうが
もっと良かったのかもしれない」
とどこかで思ってしまう。
力技で、その思いにフタをするのではなく、
どうしたら整合性をもって納得し、
この迷いを終わらせられるのか。
その答えを考えてみました。

コンテンツ
■なぜ、私はこのテーマを書こうと思ったのか
私には、ちょっとした“楽しみ”があります。
息子と車で出かけるとき、
車窓から見える対向車の
ナンバープレートを眺めて、
「札幌から来てる」「沖縄だ」などと、
二人で喜々として楽しむことです。
お金もかからない、
なんともお安く上がる
アトラクションですが(笑)、
観光地が近いこともあって、
意外と遠方ナンバーが多く、
なかなか楽しいのです。

つい先日、
また息子とアトラクション(笑)を
楽しもうとしているときに
目的地へ向かうルートに
AとB、二つの道があって、
“レアなナンバープレート”に
出会えるとすれば、
どっちを選ぶか?と
迷うことがあったときに、
ふと考えたことがありましたあります。
「Aにするか、Bにするか……」
今回のこれはは取るに足らない
小さな話だけれど、
これって、人生の選択と同じ構造だ
と思ったのです。
■AでもBでも――と理屈では分かっているのに
Aを選べば、Aの体験ができる。
Bを選べば、Bの体験ができる。
理屈としては、
もう分かっているつもりです。
それでも、
Aに行こうと決めたら
Bに行った方がレアに出会うかも
と思っちゃう。
「あの時あっちを選んでいたら……」
という後悔が、あとから顔を出す。
この迷いを“消す論理”はないのだろうか。
ここで、私は一つの視点を思い出しました。
■「抽象度を上げる」ということ
それは、
AかBかという二択(2次元)から、
その状況全体を俯瞰する視点
(3次元)へ上がること。
右か左か。
成功か失敗か。
正しいか間違いか。
こうした二択の中にいる限り、
「別の可能性」が気になってしまう。
一方で、
その場にある“状況そのもの”を
見渡したとき、そこには
「どちらが正しいか」の基準で測れない
「私は、どんな体験の中にいるのか」
ということが見えてくるのです。
抽象度を上げて見ると、
いい意味で、
どちらでもよくなる感覚
が生まれます。
そう考えて、この話を、
もう一段引いて見てみました。
そもそも私は、
息子と時間を共有し、
車の中で笑いながら、
ナンバープレートを眺めて
楽しんでいる。
つまり――
AかBかで悩めているその環境自体が、
すでに幸せだったのです。
AかBかを選んで、
もし思ったような結果が
出なかったとしても、
それはそれで「また一つの体験」。
「こっちでは期待外れの結果だったか~」
となるけど、それでも楽しい、
そう思える土台が、すでにそこにありました。
そう考えたら、
AでもBでも、本当はどちらでもよくなりませんか?

■迷いを“消す”のではなく、迷いが生まれない前提に戻る
多くの人は、こう考えるのではないでしょうか。
「後悔しないように、もっと正しく選ぼう」
「迷わないように、失敗しない選択をしよう」
しかしそれは、
“迷いが生まれる前提”を
そのまま受け入れ、
対処だけをしている状態です。
その前提とは、
「選択には正解がある」
「間違えたくない」
という無意識の思い込みです。
このような前提がある限り、
正解を求める分だけ、
迷いが生じるわけです。
そこで前提を置き直します。
「この体験を通して、
私は何を味わっているのか」
という位置に戻ったとき、
迷いは“解消される”のではなく、
そもそも発生しなくなるのです。

■自分にかけてあげたい言葉
もし、
あの選択がふとよぎったとき。
もし、
「別の道」の影が見えたとき。
こんな言葉を自分に向けて
みたらどうでしょう。
「私は、この体験するために、これを選んだ。」
「AかBかではなく、今のこの体験こそが、私の人生だ。」
選ばなかった道があるからこそ、
選ぶという体験が生まれます。
たとえばランチで、
「本日のランチは、A:しょうが焼き、B:チキン南蛮です。どちらにしますか?」
と聞かれると、
人が頼んだメニューが美味しそうに見える(笑)。
でも「本日のランチは、しょうが焼きです」
と一つしかなければ、悩みはありません。
その代わり、“選ぶ楽しさ”もありません。

■選択とは、自分を確定させる行為
選択をするたびに、
可能性を失っている
のではないと思うのです。
むしろ――
「私は、この体験を生きる存在だ」
そう、自分をこの世界に刻んでいる。
Aを選んだ自分も、
迷いながら選んだ自分も、
そのすべてが、今の私。
だから、
裁かなくていい。
比べなくていい。
後から
「正解だったか」を
問い続けなくていい
のではないだろうか。
自分の人生は、
“正しかったかどうか”で
測るものではなく、
“誰の体験だったか”
で成り立っている
と思うのです。
■人生の基準を変えていく
もう少し噛み砕いていうと
人生の基準を「評価」から
「主体性」に置き直す
ということです。
「正しかったかどうか」で
人生を測ると、
その人生は
「正解・不正解」のある
テストのようなもの
という前提となり、
自分の過去を採点し、
人生を評価対象として
扱ってしまう。
それは、「誰の体験だったのか」
という基準で人生をみるなら、
「正解だったか?」ではなく
「私の体験だったか」という
問いへの転換がなされ、
人生は正しい物語を
生きることではなく、
自分という存在が
何を体験したかで
成り立っていることを理解し、
価値の源泉は「正しさ」ではなく
「主体性」にあると思えるようになる。
たとえ、
うまくいかなかった
体験であっても、
回り道をしたと
感じる出来事であっても、
失敗と呼ばれるような
選択であっても
自分が生きた体験、
自分の人生だと思うなら、
それはすでに
その人の人生として、
成立していると
私は思うのです。

迷いが生まれるのは、
「あれは正解だったのか?」
という問いを立てるとき
「それを生きたのは私か?」
という問いの答えが「はい」なら、
その出来事はもう自分の人生だし、
体験をしたくて生まれてきた
私の命を全うしているはずです。
「正しかったか」ではなく、
「自分が生きたのか」
「成功したか」ではなく、
「それを味わったのか」
「間違えなかったか」ではなく、
「自分の人生だったか」
「正解の人生」から「自分の人生」に
立ち位置をシフトしていきたい
そんなことを感じさせてくれた
私の体験でした。
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